(この記事は2018年8月21日にnoteに掲載した記事です。)
もう20年以上前の小学3~4年生の頃だったと思う。
そんな昔のことだけど、今でも鮮明に覚えていることがある。
それは何か衝撃的な事件とかそう言うことではなく、単なる日常の1コマ。
それでも、こんなに鮮明に覚えているということは僕にとっては、もしかしたら衝撃的なことだったのかもしれない、と思う。
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小学3年生の時に、横浜から沖縄に引っ越し、新しい土地での生活にも慣れ始めた頃。
ある日、学校から帰ると家に誰もいなかった。
いつも家にいる母もいないので、「あれ?」と思いながら、ベランダに行くと、そこには干されたままの洗濯物があった。
「せんたくものをとりこんでおけば、おかあさんがよろこぶかも!」
そう思った僕は、踏み台を家の中から持ってきて、洗濯物をせっせと取り込んだ。
取り込んだ洗濯物の山を見ながら、家の中で母が帰ってくるのをホクホクしながら待ってると、母が帰ってきた。
「かえってきた!」
てっきり喜んでもらえるものと思って、帰ってきた母に、
「せんたくもの、とりこんでおいたよ!」
と言うと、洗濯物を触った母が、
「なにこれ。まだ濡れてるじゃない。ダメじゃない、取り込んだら」
と僕を怒った。
手伝いをしようという考えばっかりが先行していて、洗濯物が乾いているかどうか全く頭になかった当時の僕。
洗濯物はたしかに少し湿っていた。
そんなに厳しく怒られたわけではなく、軽く注意された程度だけど、その時僕はショックを受けた。
母が喜んでくれると思いやったのに、喜ぶどころか怒られたからだ。
「よろこん、でくれる、とおもったのに…」
悲しくて、悲しくて、泣きながら僕は母にそう言った。
そしたら、「そんな事言ったって乾いてないんだからダメでしょ」とより怒られた。
そんな日常の1コマ。
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大人になった今、思い返すと母の言った事は間違ってない。
今なら僕も多分同じ事を言うかもしれない。母を責める気もない。
ただ、今の僕ならもう少し言い方を変えたかもなぁ、と思わなくもない。
「ありがとう!でも、まだちゃんと乾いてないから次からは乾いたかどうか確認してから、やってくれるとうれしいな」というように。
後から聞くと、その頃母は初めての土地に越してきたばかりで、知り合いも少なく、父も仕事が大変で構ってくれないと精神的なゆとりがなかった頃だったらしい。
だから、仕方ないことなのかもしれない。ゆとりのない時に心遣いを求められても、無理な話だというのは分かる。
でも、だからこそ、僕はゆとりがある時は出来る限り、目に見える結果の後ろにあるそこまで過程に思いを馳せたい、と思うようになった。
たとえ、相手が自分が思ったことと違うことをしても、それがどういう思いのもと、されたことなのか。その思いを汲んであげたい。
とくに子供なんかは失敗する事の方が多い。
たった一度の失敗を咎めてしまったら、彼、彼女らは自分の思いを恥じたり、間違ったものと思うかもしれない。
だから、結果は失敗だったとしても、それを始めたきっかけが素敵なものであるとしたら、それは褒めてあげたい。
そうすれば次はもっと素敵な事になる気がするから。