『面白い』は作り手と受け手の間で生まれる。

文章を読んで「面白い」と感じる時、面白いのは文章自体じゃなくて、それを読む人のセンスである。

最近読んだ雑誌のコラムでこんな感じのことが書かれてました。

あーなるほどなぁ、と思って。

この前、見た映画『ひるね姫』のことを思い出しました。

ひるね姫を観て思ったこと

予告が面白そうだったんで、この前、映画『ひるね姫』を観に行ったんですが、自分には合わないタイプの映画で個人的にはあまり面白くなかったんですよ。

映画を観終わった後にツイッターで検索してみたら第2検索ワードに『つまらない』と出てきてしまったので、もしかしたらこの映画を「つまらない」と思っている人が多めなのかもしれない(観る前に検索しなくてよかった)

ただ、その一方で「とっても面白い!」と言っている人もいるんですよ。

「面白い!」じゃなくて「とっても面白い!」って。

作り手はもちろん「つまらないものを作ってやろう」なんて思いながら作るわけはないだろうから、面白いものを作ろうとするわけですよね。

それでもここまで評価が分かれるってことが結構僕的に面白い経験でして。

そこで思ったのが「面白い」って実は発信そのものだけじゃなくて、それを受け取った相手の間に生まれるものなんじゃないか、ということでした。

面白いは僕と受け取ってくれるあなたの間に生まれる。

僕はこのブログでも何回か書いてるんですが、2年くらい前からMCバトルというのにハマっていまして、毎週火曜の深夜に放送しているフリースタイルダンジョンは欠かさず見てます。

ただ僕の周りの人に「これ面白いよ!」とすすめても、まあ受け入れられない(笑)今のところ、受け入れられない率100%です。(近くに話が出来る人がいなくて悲しいよ…)

見ているものは同じはずなのに、ここまで評価が違う。これはもうそれぞれが持ってる面白さを感じるセンスの違い。

そう考えた時、これって発信する側も同じなんじゃないかと思ったんです。

 

『発信する』と聞くと、

「役に立つものじゃなきゃいけない」とか、

「面白いものじゃないといけない」とか、

「すごいものじゃないといけない」とか

色々考えてしまって身動きが取れなくなってしまうけど、そういうものって発信する側が渡すものじゃなくて、相手側が勝手に受け取ってくれるものなんじゃないだろうかと思うんです。

発信する事は自分と同じセンスの人を探すことでもある。

もちろん多くの人に広く深く届く『最大公約数』的な面白さや楽しさってあると思う。

だけどそれはプロの仕事であって、素人の僕らは自由に発信して、それを見た、もしくは聞いた人の中のたった一人に「面白い!」「これは役に立った!」と思ってもらえれば御の字じゃない?

ネットですぐに世界とつながれる現代、 どんなに小さい発信でも無限の可能性があると思うんです。

自分を必要としてくれる人がどこにいるかは誰にもわかりませんし、自分の何を必要としてくれるか、何を面白いと思ってくれるか、それも行ってみないとわからないでしょう。

そうです、まずは、やってみることが大切なのです。
行ってみれば、必ずわかることがあります。

発信すれば必ず受け取ってくれる人はいます。

『ほんとうの味方のつくりかた』(ちくま書房)

文章はつたなくても、その経験が面白くて読む人は楽しいかもしれない。

喋りは下手でも、その熱量は聴く人の心を動かすかもしれない。

何が面白いか、何を喜んでもらえるかなんてやってみるまで分からないんですよね。

そして自分が面白いと思って発信したものを、他の人が面白いと思ってくれたら嬉しいですよね。

 

発信する事って自分を表現することであると同時に自分と同じセンスの人を探すことでもあると思います。

だから、あなたが何でもないと思ってることも、もしかしたらそれで救われる人がいるかもしれない。

世界のどこかにきっと君を待っている人がいる。

あなたの声を聴かせてください。

   

スポンサーリンク



シェアしてくれたら喜びます!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ABOUTこの記事をかいた人

よざっち

神奈川生まれ、沖縄育ちの28歳。 中学・高校時代は卓球部で汗を流し、大学時代は演劇サークルでミュージカルに熱中していました。 それがきっかけで大学を卒業後、役者を目指して上京。 今はイベントスタッフと書店員の仕事で生計を立てながら、役者を目指しています。 演劇以外にトラベラーズノートやほぼ日手帳などの手帳も大好きです。